昭和50年07月23日 月次祭
信心の稽古に限った事ではないですけれども、とりわけ信心の稽古は、心掛けでするものだと。心掛けておかなければ、信心の稽古は出来ません。その心掛けると言う事を、最近私は心行と言う事を申しておりますが、その心掛けそのものが心行になると思うのです。さぁ今日は月次祭だと。少し何時もよりも早く切り上げて、あれもこれも済まさせて頂いて、あれも準備したこれも準備したと、例えば八時からの月次祭ですから。お祭りは八時半からです。けれども霊神様へのご挨拶がございますから八時から。
だからそれに間に合うようにと思うたら、あれこれと心を神様へ向けなければならない。教会へ教会へと金光様へ金光様へと心を向けさせて頂く。そしてそこに様々な万事万端のお繰り合わせを頂く事のための心掛けというものがそのまま心行になる。だから心行というのは心がけ。御神徳を頂くためにはこの心行を四六時中、心に掛けさせて頂く事だと私は確信いたします。
先ほど前講を末永先生が努めておりましたが、自身最近心行に愈々取り組んでおる事の話をさせて頂いておりました。あのように熱烈に皆さんが一時の信行をなさいます。もうそれこそここいっぱいにそれこそ、炎天の中をものともせずに、合楽へ合楽へというて通うて来られる。しかもこの不思議な事に、その合楽では時間が励行が出来ないと、昔から言われておりましたが。
この一時の信行だけは誰言うとなしに、誰がどう言うたわけでもないのに、もう一時の御祈念までには皆さんが、大体お届けを終わっておると言うのですから。それこそははぁやればこういう風に出来るんだと言う事が分かります。一時の御祈念が来たずうっと御祈念が始まるまでには、もう殆どが一杯の方達のお届けが済んでるんです。結局皆さんの心掛けというものを、そこに感じずにはおられない。そういう意味の事を話しております。ただギリギリ間に合いさえすりゃ良いじゃない。
それに矢張り前にお届けの一つもさせて頂く。月次祭でもそうだと思います。例えばこれだけの人数の方が、ちゃんとお祭りの八時前には、お届けが終わっておるという風にならなきゃならんじゃなくてそういう心掛けです。そういう風に神様に心を向けると言う事なんです。出来ん事はないです。こうして前所祭員をなさる先生方は、やっぱりその心掛けがあるから、誰よりも早う来るんです。楽員さん達は矢張り樂の御用を頂かんならんと思うから、矢張り心がけてある。
ただ参りさえすりゃ良いでは、折角お参りをしたおかげは頂いても、心行にはならないから勿体ないでしょうが。一時の御祈念に皆さんが現される、あぁ言う真というものをです。様々な時に現していく。何事にも信心になれよと言う事は、そう言う様な事だと思うのです。信心はみやすいものじゃが氏子から難しゅうすると。如何に見やすいというても矢張り、心掛けがなかったら難しいです。
慌てんならんです。信心は見やすいもの。それをいうならば信心の稽古をさせて頂くと言う事には、矢張りそういうちょっとした心を使わせて頂くと言う事。今日はお月次お祭月次祭と心の中に思いを掛けさせて貰う。まぁ一つこれをしてからと思いよったけれども、まぁ一つ手前のほうで切をつけておいて、例えば神様の方へ心を向けると言う事が、例えばそう言う事でも心行になると言うのですから。心行は見やすいです。
今朝からの朝の御理解も矢張りそうでした。信心は見やすいものじゃが氏子から難しゅうすると言う事を頂きました。その日その日のおかげを頂いていけば、その日その日のおかげを受けていけば、楽じゃと言う事は、大変意味の深いものだなと言う事を、今日はまた、改めて感じさせて貰うた。信心は見やすいものである。そこで信心がですみやすうなるところまでが信心なんです。この御理解の中に十年と信心が続いたら。
われながらわが心を祀れというておられます。信心が十年と続いたらわれながらわが心を祀れ。いうならわが心が拝みたいほどしになる稽古をしなければ、それは三十年参っても一生参り続けても、自分の心が祀れれるようにはならない。いわば信心の稽古。そういう心掛けを持たなければ出来ません。お参りをしてあのことも頼もう、この事も願おうと言う事だけではいけんと言う事です。
ほんなら例えばまたの御理解に、もうそれこそ人事百般何なりとも。牛馬の事に至るまでと仰っておられる。もう何なりとも人間いうならば、生きていく上の様々な問題、難儀というものを、皆さんが抱えておるが、お取次ぎを頂いて、実意を持って願うて行けと教えて下さるのですから。何でん頼みさえすりゃ良いと言う事じゃない。実意というものを追求しなければならない。実意をもって願えと仰るのですから、果たして実意と言う事は、どう言う様な事かと言う事を、矢張り心掛けさせて貰わなければならん。
実意と言う事はまた大変に深い事です。三代金光様は実意と言う事を、我が儘な心横着な心を取り除いた心と仰っておられます。私共の心の中から我が儘な心横着な心というものを取り除いたと言う事なんです。そこで私共がそういう我が儘、横着が出ないような心を、何時も心の中に頂き留めておくと言う事にです。いわゆる心行が要るのです。末永先生が話しております。
昨日はその心行がちょっと油断をして、失敗をした話をしておりましたが。丁度その時私がその御結界の前に、このくらいばかりの黒檀で作った亀の文鎮が置いてあります。そすとその横には白の大理石で作った、矢張り同じ形の亀がこう文鎮代わりに置いてありますここへ。それを頂くんですそしたらどんなに目をこすって見てもね、白のほうの亀がウサギに見えるんです。やはりははぁこれはここに亀がある。これは私の心願で見せて下さってあるなと思った。
真っ黒い亀と真っ白いウサギがそこにこうやって、向こうを向いてこう並んでおる。それこそもしもし亀よで皆さんもご承知のようにです。ウサギと亀とが競争をして亀が勝つなんて思われないのです。けれども油断をする所に、あののろい亀にでも負けなければならない。いわゆる油断大敵。怠ってはならないと言う事です。末永先生が話そうとしておる事は、信心に油断は禁物だと言う事を言おうとしておるんだというお話を聞きながら、私はそこでそう頂いた。
だから心掛けと言う事は、油断をしないと言う事にも、また通ずる事が分かります。心掛けです。もう良か良かこれが横着です。だから遅くなるのです時間を切るわけです。ですから信心はそのようにです。本気にその気になれば見やすう稽古も出来るし、また実を言うたらそういう信心が十年も続いたら、確かにわれながらわが心が祀れれるようになるのが御道の信心です。御道の信心はおかげを受けるためにあるのではなくて、氏子信心しておかげを受けてくれよという、天地の親神様の切なる願い。
いうなら様々な難儀の中から解脱していけれる道。一切のものが無尽蔵に無限に恵まれる道。それにはね、お徳を受けなければならないと言う事を、教祖様は身を持って体験され、それを教えて下さってあるのがあの御教えです。ですから私共の本当の言うなら信心の目当てというものがです。狂いがないようにおかげを頂かせて頂くと言う事。何時もそこに心を掛けさせて頂いておくと言う事。
所謂お互いが心掛けが足りない。忘れてしもうておる。そして何かの時ハッと思いだす様な信心では これは一生信心をしてもわが心が祀れれるように、わが心が拝めれるようにも、とうていならないと思いますね。心掛けです。その心掛けその事がいうならば心行です。今朝の御理解の中に新たな意味での、この御理解を頂きましたが、信心は愈々楽なと言う事は、見やすいと言う事は信心が楽しゅうなる。信心の稽古が身に付いてくる。その喜びが出来るようになるまでだと言うのです。
自動車の運転の免許を取られた方がです。自動車を自分の身体の一部の様に動かす事が出来なさる。ほらちょいと自動車の運転ちゃ難しいでしょうねち。はぁちょいともう自動車の運転のごと難しかものはなかですばいち言う人は、誰もいないです。運転の免許を取るまでが、難しいといや難しいのであって、運転を一度し習うたならば、それこそ見やすう鼻歌まじりで、自動車を動かす事が出来る様にです。信心もそうです。わが心が祀れれると言う事はです。そこまでが私は運転免許。
信心のいうならば免許皆伝だと思うのです。だからそれまでには一つ心掛けなければいけません。後はもう信心が信心を教えてくれるというかね。仕事が仕事を教えてくれる。この頃から信心研修会の時に、これが問題になってとうとう答えが出んなりでした。けれども皆さんと沖先生との間で取り交わされておる、色んな問答でしたから、横から口を出す訳にもいきませんでしたから、まぁ申しませんでしたけれども。一つの事を覚えると言う事で、段々おかげが頂けていけれると言う様な意味の事をです。
色々質疑応答の中で答えておられた。中々本当の答えが出らない。
それは愈々信心とはです。本当の事から本当を追求して行く事ですから、いうならば運転免許を取るまでが、信心の免許皆伝になるまでは難しいかも知れませんけれども。そこから私は信心が信心を教えてくれる。本当な事が一つ分からせて頂いたら、信心は愈々本当な事から本当な事へ。仕事が仕事を教えるように。それってそれが本当の事じゃない。もっとより本当があるのですから、それを追求していく事なんです。
ですから皆さんどうでも、焦点をそこに置かなければいけない。信心は見やすいものじゃが氏子から難しゅうするとか。その日その日のおかげを受けていけば、楽じゃと言う事がです。頂けれる所までが信心なんです。十八日の月次祭からこの二十三日の月次祭までの、数日間の事をです。皆さんに今朝から聞いて頂いた。見やすいものじゃと言う事はこういうものだと。十八日の月次祭。十九日から九州幹部の方達が、ここで百二十名百二十四名ですかの方達が集まって、信心の研修をされた。
そらもう幾ら広いというても、本当にどの部屋もこの部屋も一杯使わなきゃならない。そういう大事をいわばさせて頂きましたが。その夜母がお国替えのおかげを頂いた。翌日が遷霊その翌日が密葬その翌日が告別式。その翌日が今日であります。二十三日。一つもどこにも引っ掛かってない。それは本当に例えば親を亡くするというほどしの事だから、それこそ雨だろうか嵐だろうかと言う様な所であったかも知れんけれども、それに一つもこう高い所から低い所へ水が流れる様に。
ここに障害があってもそれを回って流れるかのように、一つもわだかまりがないち言う事。そればってん貴方あぁいう研修会の最中に、お婆ちゃんが亡くなりゃこっちはもう、テンヤワンヤしなさったろう。それがテンヤワンヤしてないと言うトロに、私は素晴らしさがあると思うんです。そんならあんた研修会どんが済んでから亡くなりなさるなら、まぁだ良かったろうばってん。そげん言いよると今日の月次祭にかかってくるです。こらまぁだその事を言うともう。
後から先の事がとにかく引っ掛かってくるです。親教会のほうにも引っ掛かってくる。明日の久留米の親教会の大祭の事にまで引っ掛かってくる。どぉこにも引っ掛かる事が無い。しかもほんなら、その研修会にでも、私の出番には、ちゃんと出番に出らせて頂いておる。昨日も告別式が済んでから、原口県会議員が見えておりました。会葬を頂いておりました。久留米の筑水の会長の播磨さんも見えていただいて、一緒に残っておられました。私はこちらで色々と親戚の者と話し合いしよりましたら。
向こうに見えとるから、ちょっと顔出してくれと言う事であった。それで伊万里の竹内先生がその御用を承られて、そして自分がおかげを受けられた事を、私が金光教の信心をとにかく、諸国を行脚しながらでも、本当な信心があるならば、本当の事を教えてもらう人があるならば、どこまででも御道を求めていこうと思うて、その当時の偉い先生という偉い先生には全部面接された。
けれども自分の是にぴたっと来るものが無かった。合楽に当時の椛目と言う事を聞いて、昨日私は話を聞いて四回と思いよったら、四回見えて五回目に私が会ったと言う事だそうです。私は四回と思うておった。私はその時分に合楽で私がおらないと言う事は、先ず無いです。けれども竹内先生が熊本から見える時に限って、私が四回も不在であったと言うのですから。それをやはり押して五回目にようやく、親先生にお会いをさせて頂いて、御理解を一言頂いた時に。
私が永年探し求めておったのは、是だと言う事になって、今日あのような信心がお出来になっておられる。今度伊万里市長にもう七、八年なりますかね。に市長になられた顛末を、ずうっと話されたらそこに居並ぶ者が、ほとほと信心の無い者ばっかりですから、もう感心してしまった言うております。そしてここの先生は中々文学者ですばいち、原口県議が言われたげな。私が行ってからもそれを言われました。
今日先生が告別式の後にお話をされた。もう私はそれをずうっと手帳に書いたち言う、その良かとこだけ。そげな良か言葉を使った訳はなかったけれどもですね。何か知らんけれどもね。人間その何かに訴えるものがあったという意味じゃないでしょうか。私が開口一番責任を全うし得たものの、安らぎを母のお国替えの中から、それを見たという言葉を、一番初めに申しました。
それが文学的だったち。はっはははここの先生は文学者ですよと言う訳です。それをやっぱりあの短いお話のなかから、幾所も幾所も手帳にこげんして書きましたと言うておられました。横におられる播磨さんがね。もうとにかく合楽の事は、悪い事ばっかり色々自分自身もそういう態度を、私は感じましたけれども。今度の研修会ばかりでは私は驚きましたち。私だけではないもう皆んなが驚きましたち。
何故かというと自分の親を亡くしておられた先生が、あの晩にあの翌朝に昼までこれから先もね、気振りに見えなかったと言う事。お話もゆっくり頂いたし。とてもとても普通の者で出来る事じゃないと、皆んなで話しましたと言う事を昨日聞きました。そしたらね。神様から示現と言う事を頂いたです。ははぁあの百二十人の者が集まっておってです。「あん時にあんたあの晩、合楽の教会長のお母さんという人が亡くなられたげなですよ」ち。「私だんいっちょん知らじゃったのぉや」と言う話が必ず出るでしょう
。して見るとですそこにです成程合楽の値打ち。どの様な事が是から起きてきても驚いてはならんぞという、その信心が御教えがいわば、私の身に血になっておった、その姿を見て帰った人達がです。播磨さんならずとも矢張り驚いたんです。とても昨日の会葬に見える方じゃ大体ないですね播磨さんは。けれども昨日はやっぱり会葬に見えて、たまたま原口つぁんとここで会われて、そしてしばらく遅うまでまぁ飲んで帰られました。して見るとその研修会の最中にです。
母が亡くなったと言う事はもう、亡くなるギリギリまで、母は示現活動に参画しておったなぁ。神様がそういう御用に使うて下さったなぁと言う事が分かるでしょう。これは月次祭から月次祭までの。十八日の月次祭から二十三日の月次祭までです。それこそ大変な行事がずうっと続いておるのにも拘らず、それがダブってどうと言う事もなかった。昨夜私はここにお礼に出て来られた時には、もうこの通りのお広前が、ほら何時間前にあぁいう大変な、それこそあの舞台装置ですかね。
あの祭壇なんかとてもとても、大変な手の要った祭壇がです。あれだけの沢山な花がもう全部片付いてしもうておった。ご神前も御結界ももう私が、昨夜ここに出た時にはあら何か、今日あったつかてんなんてん、とても思えないほどしに立派になっておった。そこに四五人参ってきた人達は申しました。合楽の素晴らしいとこは、ここだと。明日まで残さない。さぁ今朝の朝の御祈念には、やっぱりここ一杯お参りしてきておった。今日の一時の御祈念の信行にも、またいっぱい参ってきておった。
そしてまた今晩のお月次祭には、このように沢山お参りがあっておった。これがねどこかでこうして、ガタガタしておったらそれが出来んのです。これはそう言う事柄だけではなくてです。例えば一切がその通りなんです。その日その日が立ち行くと言う事は、そう言う事なんです。お父さん今晩頂いたらお米はにですよと。米びつの中にはお米は一粒も入っておりませんよと。
それでも今夜まで頂けたんだから、しっかりお礼を申し上げて、明日は明日というて休んだ時代もありましたが。さぁ翌る日になって一日食べなかったと言う様な事は、一遍だって無いと言う事実なんです。その日その日が立ち行けばいいのです。そういうおかげをいわば、その日その日が立ち行けば楽じゃとおっしゃる。楽でしょうほうらもう昨日も食べじゃった。一昨日も食べじゃった。そるけんどこどこに借りげえたと、言う様な事じゃ楽じゃないでしょうが。
だからその日その日が立ち行けば楽じゃと言う事は、そう言う事なんです。信心は見やすいと言う事はです。だからとにかくわれとわが心を祀れれるほどしのは、十年と信心が続いたら。今日私が皆んなさんに聞いて頂く様な事を焦点にしてです、いうなら心掛けです。本気で心行させて頂いてです。愈々真の道というか信心の道を歩かせて頂くならば、もう誰だって十年経ったらわが心が祀れれるようになるんだと言う事。
それをただ自分の頼みごとだけに、お参りするのが信心だと言うような、間違った考え方ではいうなら願う事は願っても良い。牛馬の事に至るまでなのだから。けれども実意を持って願えと仰せられる所を、私共が欠けておる。そして第一心行に欠けておる。最近の合楽は心行に終始するのでございますから、愈々心にかけさせて頂くと言う事、心に神様を頂いて行くと言う事は重荷にはならぬ。重いものを持って廻らなんと言う事ではない。どのような便所に行こうがお風呂に行こうが。
道を歩いておろうが心掛けなのです。それが心行なんです。それが神様にいつも向こうておる事なんです。そういう稽古をさせていただくなら、誰だってわが心が祀れれるようになるんです。さぁそれから先はもう、みやすう朝参りが楽しゅうして楽しゅうして応えん。もう出来るだけお供えでん、どんどんさせて頂くと言う事が、嬉しゅうして応えん。はぁ時間も要るはのお金もやっぱ、やお行く事じゃなかという間は、まぁだ信心が難しいとです。そして自分の思うごつならんと。
やっぱてぇげぇ参ったばってん、おかげ頂きらじゃったと。そう言う事になった信心では、こげんつまらんことはないです。一つ本気でねわが心ば、神様へ向こうていく信心。信心が見やすいと言え思えるる所まで、本気で信心をさせて頂かなければいけません。そして信心ちゃ難しいもの。それは運転免許を取って、ほんなんら私共のごと運転しきらん者が難しいのであって、どこが動かすかなんじゃい分からん。先ほど今こちらへ出がけでした。今日田主丸から電話がかかってきてから。
今度夏の祈願祭に信徒会長秋永先生に、お説教をお願いしますと言う事であった。この前もおかげ頂いておる。あぁ沢山先生方がお見えになられる中にです。何故合楽の秋永先生、秋永さんと言われるのかで私が申しました。口で本当に秋永先生のおかげで、毎月信心の共励が出来るち言いよりなさるとが、まんざらしらごっじゃなかろうごたる。やっぱおかげを頂くから、いわば大事な御大祭の後のお説教を、お願いすると言われたが、やっぱりまんざら、しらごっじゃなかばいねと言うて。
笑うて出てきた事でしたけれども。それは秋永先生がわが心が祀れるとこう言う所に。まぁ行ってるかどうか知らんけども、そういう過程にある人の話だから、生き生きしておるです。信心にこの生き生きとしたものが欠けたら、どんなに素晴らしいお話をしても助かりません。自分の心が生き生きとしておる。その生きた話だから皆んながです、やっぱり合楽の信徒会長の話が良いと言う事になって、お話をお願いすると言う事にもなってきたのでしょう。問題は生き生きとした信心。
それは絶えず私共が心がけて何時も心を神様へ向けておくというか、絶えず心行させて頂いておると言う様な中からしか生き生きとしたものは生まれてこないと思うのです言葉一つでもです。そら合楽の先生は文学者と言われるごたる言葉は出ちゃこんです。と思います本当に信心が見やすいものだと言う事と同時に、結論というならばですその日その日がもう有難ぁく、一切の上に立ち行くほどしのおかげを頂いて頂きたいと思います。
どうぞ。